セミスパイン —社会の入り口で覚えておくべきこと

モティベーションは基本的には自分でコントロールする以外に方法はない。与えられた環境を目いっぱい活用するかどうかは本人次第でもあるしこの活用という働きかけによって環境自体変化し自分にも跳ね返ってくるということは無視できないことであります。

与えられた環境の中で最も身近なものはもちろん自分の身体であることは論を待ちません。自分の身体の活用の方法はしかしながらほっておいて自得できるものかどうかはどちらかというとかなり不分明になりつつあります。

原因は結論を急ぎ過ぎるところにあります。結果を早く出そうと焦って使い方の習得をなおざりにしてしまうからであります。目標とそれに至る過程をいわば対立物としてついつい過程に時間をかけず大きな成果目標を得ようとしてしまうからです。

人間にとって自分と環境の関係は実は「部分と全体」の関係に置き換えることが可能です。しかも部分と全体の役割は互換なのです。だから同時に2つのことをそれぞれがそれぞれの部分と全体として並行して取り組むことが可能でありまたそのような取り組みをしなければならないのです。

これがアレキサンダーが発見したことです。何かしようとして”時間をかけずに効果を出すために癖となってしまっている随意筋の緊張”を抑制することから始めます。この随意筋の緊張がそもそも物事がうまくいかない原因なのであります。だから意識的な緊張よりも抑制が結果として過程にかける時間・エネルギーを減少させるのです。うまくいかないのなら最初からやり直しをした方が早い場合があるのです。

このことを一番わかりやすく体感するために「セミスパイン」(建設的休息=constructive lest)という方法がアレクサンダーテクニークにあります。体幹を実感する。呼吸を深くする。自己観察を深める。モティベーションを高める。疲労回復などいろいろな効果がありしかも習得にそれほど時間はかかりません。

<体幹を体感する>ダジャレの様ですがすべてはここから始まります。体幹というのは一口に言えば「頭の後頂に糸をつけて人体をつるしたときまっすぐにぶら下がって感じられる背骨群」のことをいいます。これをたとえば頭の天辺(百会)でつるすと前重心になってしまいます。一般で云う「体幹」とは腹背のからだの中心部に位置する随意筋群のことをいうので定義が全く違うことを注意してください。ATの手法は(野口整体もそうですが)いわゆる「体幹筋肉群」の動きを押さえる方向に導いていくのです。人間が随意筋群によって生きているというのは単なる誤解ですがここでは取り上げません。体軸という言い方もありそうですが定義よりも体感の方を優先したいと思います。この体幹を体感する一番簡単で実践的な方法がアレキサンダーテクニークの「セミスパイン」(建設的休息)という方法です。

適度に硬い床の上に横たわって頭の下に文庫本4、5冊分を敷いて枕にして、頸椎が無理なく伸びるような角度をとります。仰向くこともうつむくことも自由な位置で頭部を落ち着かせます。膝を適度に開いて立てます。適度さというのは微妙な感じで開くことも閉じることも自由かつ可能なところでバランスを取ります。足裏は両方とも足の重さを支えて床に着けます。このとき足先とひざの向きは同じ方向を向いています。腰骨は反らないで床の上に落ち着いています。反っているのを治そうと思うなら最初に横になるところから始めます。骨盤を上げて治しません。両手は組まず三角形にして、肋骨の両下端、わきばら、大腿骨の付け根など好きなところに置きます。

頭の位置は野口整体の言う頭部第五調律点(後頭部の突起)が軽く押し上げられるような感触でよいと思います。顎がやや(首にしわができない程度に)うつむき加減です。胸椎から腰椎仙骨尾骶骨(の先は除いて)までほぼ床に接触しています。そのため肋骨が自然に持ち上がります。どこにも緊張する部位はありません。(強いて言えば腰の反りがなかなか取れない事がありますが無理して直しません)

この姿勢はこのまま立てば立禅(太極拳でいう站椿功)です。ただし立禅は腕を前方に円を描くように(なにか抱くように)突き出します。立つと重心が体幹部よりやや前に出ますのでチャクラや丹田として改めて意識されるようになってくるのです。その実態は頸椎1番(頭部第五)、胸椎5番、腰椎345番やそのものやその働きに連動する筋肉群や皮膚感覚ということであることに間違いはありません。この立った時の姿勢が「虚領頂勁 含胸抜背 気丹田」という太極拳の基本姿勢になるわけです。

武術をやっているわけではありませんので立たないでそのまま横たわって長くても20分静かに体の感覚を楽しみます。場合によっては「脊髄行気」を行うこともあります。頂勁から頸椎胸椎腰椎仙骨尾骶骨まで椎骨を勘定しながらゆっくり息を吸います。肋骨が上がっているためかなり呼吸が楽になっていることが実感できるでしょう。頸椎が7つ、胸椎12、腰椎5ゆっくり勘定してもまだ息は続けられます。丹田で一端止める方法もあります。吐くときは何にもなしでもよしあるいは体幹の前を通って虚領(百会)の方へ吐いていきます。15分~20分ですがあっと云う間に時間が過ぎてしまいます。一端うつ伏せになってゆっくり起き上がります。

頭部第五は野口整体でいう「眠りの中枢」=眠りの質をつかさどります。触って張りがなければ寝過ぎ=睡眠不足ということです。いくら寝ても疲れが取れないというのは単純に睡眠不足に分類されるので野口整体流にいえば「体を使ってないためのエネルギーの過剰現象(閊え)」に勘定されてしまうのです。ほとんどあらゆる現在的な身体事情は環境への働きかけ不足、活用不足の閊えでしかありません。単純に言えば「食べるものを減らし、汗かいて、いぎたなく寝過ぎせず、楽をしないで楽しんで仕事をする」ことが健康のもとなのであります。同じく胸椎5番、腰椎3番ともに主体的な行動や働きかけの中枢であります。体幹というのは筋肉群を動かす以前の方向性から見ていった方がよいのであります。意識化されてから動かす筋肉群に頼っていては多分一瞬なりと人は生きてはいけないのでありましょう。

内田樹先生が合気道のおかげで膝を壊して池上六朗先生(三軸修正法の創始者)に直してもらったと池上先生の本にはあります。池上先生は昔子供を沖正弘先生のところへ治療に連れて行ったところ「あんたは健康法の先生をやったら成功する」といわれて「三軸修正法」を創始したわけですが沖先生は野口晴哉師のところで3年ほど「健康法の先生」になる方法を修業していたのではないかと思われます。「沖ヨガ」というのも沖先生の創始物なのでありインドのヨガとあまり関係はないのではないでしょうか。内田先生が膝を壊したのは一口に「体幹」を錯覚してとらえていたということで膝や腰を壊す前に「セミスパイン」を習得することが先決的な課題であるとこれから社会人として人生を始められる人たちに勧める所以なのであります。

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アレクサンダー・テクニーク WS 4月16日

細井先生とリリーちゃん

第2回社内公開セミナーという位置づけで「アレクサンダー・テクニーク」によるワークショップを4月16日に開催しました。アレクサンダー・テクニーク(以下ATと表記します)の考え方を表す言葉とかその手法に慣れていない人たちを集めて行うには講師の人が大変だったと思いますがそこそこ反響があったかどうか?・・・・そのためもあり少しフォローをしていくことにします。

参加者が30人と多いので講師は2名お願いしました。講師はイギリスSTAT会員・アレクサンダーテクニークスタジオTokyo主催講師細井史江先生とドイツGLAT公認アレクサンダーテクニーク教師(フルート奏者でもあります)大塚由美先生です。

まず趣旨ですが端的に「パソコン操作症候群」にから身体不調を予防すること。具体的には上から頭と頸部と胸椎の裏側(プライマリーコントロール)、大転子、大腿部裏筋(ハムストリング)及びアキレス腱を意識して心持広く伸ばして使っていく感覚を養うということです。

パソコン長時間使用による身体不調は端的には目の疲れ、後頭部、首筋や肩のこりやアキレス腱のこわばりに現れてきます。身体症状としてはなかなか寝付けない、寝起きが悪い、いくら寝ても疲れが抜けないなどの症状に表れてまいります。こうした症状を対応療法で治すのは症状の数だけ療法が必要ということで「病は気からで病気のうちに入らないとするのか今はやりの社会的(軽症)うつで処理するのか」悩ましいことになってしまうのであります。前回流の副題をつけるなら「引きこもりになる前にATによる心身調整のすすめ」とでもなると思います。なぜATなのかというのはジョギングやヨガのように日常とは別なフェーズを作るのではなく立ったり、歩いたり、座ったりパソコンを操作したりする中で心身調整をしていくというところです。

大塚先生のハンズオン

まず立つということです。立ち方でハンズオンされたひとはわかると思いますが腰を少し引いた形でかなり前重心になります。以前の立ち方に比べれば極端に言えば自覚的には腕を前にたらしたお猿さんのような姿勢の様であります。 仕上げとして頸椎一番の天辺の前上に頭の重心を乗せるようにします。この立ち方だとアキレス腱から頸椎まで伸びるような感覚と背中を広げていく操作も加えると手全体が伸びていくような感覚、別な言葉で云うと「ふところが深くなって手足が遠くなる」ような感じになってまいります。

大塚先生 座りかた、膝と足の関係

続いて座ること。坐骨で安定して座ります。脚は重力に任せて足先とひざの方向が同じになるように意識します。女性の場合膝を閉じ気味にするので余計な緊張が腹部にかかって長時間座るのがつらくなってしまうのでむしろ膝は開き気味でよいのです。背中から首、頭の関係は立った場合と同じ感覚で伸ばして広く使います。手も同様ふところを広げてキーボードを触る時は肩や腕の動きをむしろ抑制気味に・・・・手を使うとき肩から動かしてしまう癖をやめるのです。できるだけ余分な筋肉は使わないように。体幹(腰の裏)から手が伸びているような感じで使います。

セミナーの最後はライイングダウンワーク。横になって頭、首、背中、腹部、脚部それぞれできるだけ緊張をとって、それぞれがある意味バラバラなるような=それぞれのバラバラになりうる可動可能性を確かめていくような感覚を呼び覚まします。手足が遠くなるというのか身体が普段自覚しているよりもっと広がっているような感じです。全身が少しづつ温かくなっていくようでありました。

ライイングダウンウォーク

みんなで準備します

以上で2時間のワークショップは終了です。終了後当日参加した中日メディアブレーンの中川部長と細井先生、大塚先生と食事をご一緒いたしましたが両先生ともみなさん明るくて初めてなのに暖かく迎えてもらって楽しい研修会でしたということでした。ある意味場数をみんなが踏んで新しいものでもそれほど違和感なく受け入れられる土壌のようなものはできたと思います。

今はやりというのか斉藤環という精神分析医の先生の著書「社会的うつの治し方」という書籍の中に人薬(じんやく)という言葉でクメール・ルージュによるカンボジアの激動の時代を生き抜き動乱後、孤児たちのために光の「未来の光孤児院」の院長として社会復帰のプログラムを実践しているヌオン・パリ―の処方箋を紹介しています。                                         1.忘れること 忘却の訓練                                         2.働くこと  たとえば掃除 プライドを取り戻す訓練                          3.愛すること 身づくろい、グルーミング、スキンシップ 他者を受け入れる訓練        それぞれを大きな全体の一部として だから3つを同時に他の部分として実践していく

人は言葉を通じて現実世界と切り結んでおりますが(言葉の世界=象徴界 に裏打ちされた)”正常な自己愛と他者との関係”がその人の人となりを規定しているようであります。だから身づくろいや毛づくろい(グルーミング)やスキンシップが普通の生活を送るうえで結構大事なことだということができます。そうした面からATは自分と自分の身体という他者との関係を修復する良ききっかけになると思います。

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”クラウド”時代のビジネスモデル

アラン・ケイが見た夢から始まってコンピューティングの世界はウォズニアックジョブズゲイツ、日本では嶋正利氏(マイクロプロセッサーの事実的創出者)や西和彦、安田寿明氏(元読売新聞記者ワシントン時代にラインプリンターとコンピュータの組み合わせから日本の新聞CTS技術をリード、東京電機大学教授に転職後講談社ブルーバックスにてマイクロコンピュータ3部作を出版日本のマイコンブームに火をつける)その他数え切れない大勢の人たちによって短期間に大きく変わってまいりました。

特に昨年のジョブズの死とios5の発表から本格的に”クラウド・コンピューティング”の時代に入ったことを日に日に実感する毎日であります。

google の歴史(スタートはなんと1996)もまた大学生たちがLinuxのサーバーを複数台つなげて検索エンジンを開発することからスタートしこれまたあっという間に大きくなってしまったのであります。

環境のアドバンテージはビジネスの成功要因ではありません。ウォズニアックがジョブズの死に関してアップル社への一抹の不安を述べているように、この環境をどのように企業目的である「社会貢献」に結び付けるのか、顧客が望むサービスの提供を如何に実現できるのかを忘れるわけにはいかないのです。

嶋正利氏がIntel社にプログラマブル・ワンチップ・マイクロコンピュータのアイデアを持ち込んだのは1969年嶋氏26歳の時です。翌年プロジェクトが進捗しないのに激怒した嶋氏が居座ってi4004の設計製作に携わりほぼ独力で世界最初のマイクロコンピュータを完成させている。1972年には正式にIntel社の主任設計技師として後続のi8080CPUの製作に携わり94年独立しモステクノロジ社によってIntel社とモトローラー社のドロップアウト社員とともにMOS6502CPUを完成させる。

MOS6502は設計技術の優秀さと製作歩留まり率の高さで他のCPUを性能と値段で圧倒それが当時25歳と20歳であったウォズニアックとジョブズの目に留まり”APPLE Ⅰ”の誕生となるのである。

嶋氏がIntel社を訪れた年に生まれたリーナス・トーバルズは1991年ヘルシンキ大学の修士論文としてパソコン上で稼働するUnixクーロンOSのカーネル”Linux”を公開する。対象とするCPUはIntel社の32ビットCPU i80386なのであります。世界で最もポピュラーなパソコン上でメインフレームで使われているOSであるUnixライクなカーネルがオープンソースで公開されたことは既に存在していたオープンソースコンソシアム活動に活気を与え多くのアプリケーションソフトが次々と移植されていった。ソフトウェアの使用・改変はソースとドキュメントを公開する限り自由かつ無料であり、バグはソースコードを書いた本人を含む興味を持って参加する不特定多数の人たちの使用とチェックによって修正・改良されていく(リーナスの法則1)。このオープンソースコンソシアムに対する無償の協同参画行動の動機は単純にそれが「楽しい」からである(リーナスの法則2)。

1996年スタンフォード大学修士論文として検索エンジンの研究をしていたラリー・ページとセルゲイ・ブリンが、複数台のLinuxサーバーをクラスタリングしたシステム上でハイパーテキスト検索エンジンを開発、98年のグーグル社の創立となるのである。amazon社もfacebook社もよって立つWeb上の技術はLinuxコンソシアムの成果物に自社開発技術を乗せたものなのであります。Google Chromeもアンドロイドもこの延長上にあります。

MACのOSはCPUの構造に依存しない学術的に一歩進んだ設計技術の上に成り立っておりかつオープンソースでもありますがそれに参画する人たちの人数に圧倒的な差が現実にはあります。リーナスの法則の1と2に合致しない何かがあるのではないかと思われます。独創性・専門性をあまり主張しないいわばよりユーザーよりであるところがリニックス・ファウンデーションの強みと考えられます。2000年スティーブ・ジョブズがリーナス・トーバルズ(当時トランスメタ社勤務)にLinuxカーネルの開発をやめてアップル社に入社することを進めたこともあるようですが、もともとマイクロアーキテクチャのCPUを前提としたMAC OS = MACH が好きでなかったこともあって辞退しています。

このマイクローアキテクチュアーOSカーネルをフリーソフトウェアファウンデーションの立場から推進している人物としてはリチャード・ストールマンが有名であります。年齢はちょうどウォズニアックより3つ若くジョブズより2つ年上。フリーソフトウェア運動の伝道者というのかコンピュータソフトウェアのファンダメンタリストといったほうがよいでありましょう。彼はユーザーの自由を徹底的に主張します。職に報酬を求めず定住地を定めず自分の痕跡の残るあらゆるインターネット上の情報に注意を払っております。携帯電話は持たずWebは自分の関心のあるもの以外は一切見ません。著作権ならぬ著作物の改変自由(コピーレフト)とユーザーの権利を徹底的に主張するのです。だからストールマンはアップル社の独裁者であったジョブズの死に対して彼を「愚者を自由から切り離すことを目的とする監獄としてのコンピュータをクールなものにしたパイオニア」と呼び、「彼が死んで嬉しいとは言わないが、彼がいなくなって嬉しい」と書いたのであります。

ここに出てくる人物で故人は昨年亡くなったジョブズただ一人で残りの人たちは今なお現役で活躍している人物ばかりであります。ジョブズとストールマンのような極端に性格や世界観の違う人物がパソコンのOSでつながるところがあるなど面白い事象も見られるわけでありますが、どの人物もまたそれぞれの立場でリーナスのいう「本当にわくわくすることを、一日10時間、10年間続けることのできた」人たちばかりでありましょう。先をおもんばからず、対価報酬を求めず、今此処に集注できることを一日10時間といわぬまでもたとえ一日1時間でもあるいは10分でも持てることとその事とその事を通じて一人でも多くの人々を巻き込むことができることが世の中を変える何物かなのでありましょう。

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Google の個人情報方針開示について

金融資本主義の技術的な進展基盤の一端でもある、たとえば”Google clouds”システムへの信頼あるいは不信というものを考えてみる。Googleが発表し3月1日から発効した個人情報取り扱い世界統一規定に対して、個人情報保護の立場からGoogleがGmailアカウント等にかかわる情報を統合することにいろんな国々が懸念を表明していることが新聞に紹介されております。単純に言えば個人情報を管理する権利は国家(NATIONAL STATE)の固有の権利であるという主張の様であります。実を言えばそもそもの「個人情報保護法」の精神は個人の情報が国家に管理されることを嫌い、個人が自身の個人情報についてコントロールできる権利を留保しようとするものでありますのでむしろこの場合Googleのやろうとしていることの方が正当性は高いのであります。アメリカでは国家権力の恣意的な使い方が進み個人の携帯通話・通信などとっくの昔に筒抜けになっておりますし、民間で開発された通信の暗号化技術が広まることを恐れてPGP(プリティグッドプライバシー)のような技術を安全保障上の理由で国外使用を禁止しようとしたこともあります(してもいます)。国をそもそも信用できないものと考える立場とお上を信頼してきた立場では千里の差があるのであります。

Google が言っていることはある意味表立っていないだけでほとんどのITサービスを提供する業者が実際に行っていることにすぎずまたそれ故に「個人情報保護」原則に立ったうえで(各個人が自己の個人情報をコントロールできる自由をみとめて)方針を明解にしただけのことで、単純に言えば「そのことをわかったうえでGoogleを使うか使わないか」を決めるのはこちらですねということでしかありません。

もともとgoogleのサーバー・システムは1台の巨大なホストサーバーによって統括されるようなシステムではありません。そもそも論からすればインターネット技術自体が水爆戦争を想定して部分的な破損によっても全体のデーターの保全復元が可能なような分散データー処理・経路を前提としてまいりました。国家行政機能のマヒも前提にはいっているのです。だからむしろ中央集権的な行政がコスト軽減とデータの保存管理のため住基データーなどを民間のclouds上に置くようになるのは自然のながれなのであります。

それは通信衛星を含む巨大なデーターネットワークによるコンピュータ情報処理が金融データーの処理を飛躍的に高速化したこととそれに対しての政治的・制度的なルール化が徹底的に遅れてしまっていてなおかつ局所的のままにとどまっており全体を到底カバーできないでいる現状と無縁ではないのです。

国民国家といえど世界規模の金融市場ネットワークの中では単なる国債の売買や通貨取引によるデーター処理の対象であってゲームプレーヤーですらないのであります。金融市場での取引の結果によって一国の国家財政がデフォルトするというようなことが当たり前のこととして処理されるような時代であります。日本は世界一の債権国で今一生懸命円高に介入するためドルを買い支えております。アメリカは日本がドルを買ってくれるのでドルを印刷するだけで「強いドルを期待する」といっていればよいのであります。世界一の債務国はアメリカでありますが日本はアメリカに「借金を返せ」ととても言える立場ではありません。国民が日本国債を買ってくれたお金で政府がドルを買い支えるわけですから単純にこのことに関して言うなら日本国政府はアメリカ政府のブローカー以上の役割を果たしているわけではありません。アメリカだってドルを買ってくれなどと一言も言っていないのですから政府・日銀の立場は一口に売国奴としか言いようがないのであります。

このように国家というようなものすら与信格付けの対象でしかない、その信用が国債やその国の株式市場の状況で数値化される時代なのであります。

単純化して言えばGoogleを信用するのか国を信用するのか、国の要望によってはGoogleがその持てる情報を提供するのかしないのかあたりがポイントになってくるでありましょう。この方針開示によってGoogleの株価が上がるか下がるか注目すればよいと思います。わが社では3月1日付でGoogle Apps for Business を導入することにいたしました。

 

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自分の世界 —不動智ということ

よく「自分の世界」などということがありますが、その自分の世界には「自分」が存在しますか?と聞きますと大概「いる」のであります。実はそのことがその世界が「自分の世界ではない」ことのまぎれもない証拠なのであります。その自分の世界の中にいる自分=幽体離脱などでも振り返ってみて見える自分というのはまさしく意識によって構成された「自分」なのであります。対自的な自分はまぎれもなく自分ではないのであります。その自分でないものが中心にいる世界はしたがって「自分の世界であるはずがありません」。それは自意識という他者によって構成された世界なのであります。

自分切りの世界というのがあります。そこには自分が存在しません。なぜならその世界そのものが自分自身だからであります。自分を意識することがない世界ですので当然それが自分の世界であると誰も主張することはできないのであります。だから結論から言えば「自分の世界」などというものは実はどこにも存在しないのであります。

私どもは今・ここを生きております。今ここ以前も以後も過去・未来の世界ですが今ここには存在しないのであります。今ここの世界は私が属する世界ではありますが私の世界ではありません。生きとし生けるものすべてと共有している世界であります。今ここにある世界を実の世界というのなら「自分の世界」というのは実の世界ではなく虚の世界という言い方ができるのでありましょう。

一方よく「自分の世界を作れ」ともいわれます。「自分を守る装置」としての「過去・現在・未来を貫く自分の世界」というものは想定しうるしそれなりの一定の役割はあるように思います。だからこれを「自分を守り且つ限定するもの」として考えずに自分で再構成が可能と考え貝殻のように自在に開けたり閉めたりして守ったり打って出たり、老廃物を排出したり栄養素を取り込んだりすることができるようなものと考えるのが良いように思います。心を身体と同じような一種の独立解放系として想定し構成しなおして成長していくような操作もするわけであります。

普段は意識しなくとも、身体と同じように心にも少し意識して重心を置くところが必要に思います。たとえばATSでは野口整体でいう頸上の奥(頸椎1番と頭部第1(アジュナ・チャクラ))を結ぶ線上で頸椎1番より=耳の穴を結ぶ線の真ん中)を意識し(ハングオンするといいます)、日本的な体捌きでは丹田(スベジスターナ・チャクラ)を意識するというように。座禅をする場合最初は組んだ掌の上に心を想定するようでありますがいずれにせよ体幹回り(チャクラ回り)を意識していつでも自在にひっこめたり広げたりできるような心の操作性を想定しておくのがよさそうであります。

少し意識するということで大事なことは「そこに心をとどめて集中してはいけない」(余分な集中をむしろ排除していく)ということもあって「不動智」というようなことをいいます。人間の意識というものは面白いもので五感のうちの一つに意識を集中しすぎると一種の入眠状態(緊張状態)に入ってしまいます。マクルーハンが現代人を視覚に意識集中しすぎた一種の神経症と規定しておりますように・・・・。不動智は沢庵和尚の柳生宗矩にあてた手紙「不動智神妙録」に出てくる言葉であります。「向ふへも左へも右へも、十方八方へ心は動き度きやうに動きながら、卒度も止まらぬ心を不動智と申し候」と

名を呼ばれたら間髪を入れず「諾」と応える。呼ばれた理由を意識に上らせずいかなる意味でも不意打ちとして受け止めずいわば改めて意識を呼び覚ますことなく心があるままに動くことを「不動智」といいます。反応して動くのではなくて動いているからたたいたら反響するような動きのことを言っているようであります。今ここに心が満たされているような状態と言ったらよいのでしょうか。臨済の言う「随所に主となれば立処悉く眞なり」ということの別の表現の様でもあります。臨済宗でいう公案というのか問いに対して答えるのではなく打って反響する動きを発語したり所作で示したりする心の動き=不動智の有り様=を表現しているようであります。疑義すること理を立てること立ち止まること言い訳を探すことなどの心を止めることを一切しないのです。

ポカミス連続発生のからくりというのがあります。ミスをした自分を認めればよいだけの話なのですがどうしても自分へのこだわりが邪魔をするのです。

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Siri 日本語対応・・・・マクルーハンの夢

Jabra Stone2 を購入することにした。iphone4s を入手したこともあってたまたま店頭にあったJabra Easygoを買ってみてiphone4sから標準で搭載されるようになったSiri(音声コントロールユーティリティ)を使ってみて面白そうなのと3月9日からどうやらSiriが日本語対応になりそうなのでEasygoの上位機種Stone2を買うことにしたのであります。

マクルーハンが活字文化(表音アルファベット+活版印刷技術)によってもたらされた「視覚優位文化(左脳優位文化)」は、活字文化がもたらしたエレクトロニクス技術文化のさらなる展開によって聴覚優位文化(右脳優位文化)に変化して(戻って)行くという予想をたてて久しいのであります。

アメリカではクリントン政権下でゴア副大統領の言う「情報ハイウェイ構想」やテレビのデジタル放送化が「グーテンベルグ以来500年に一度の情報大改革」だと喧伝されたのはつい昨日のことであります。この情報大改革は「バラ色の未来」を約束はしませんでしたが、確かに目に見える形ではないにしても、なにより「金融資本主義体制」のあり方に対して大きな変化をもたらしたのは事実なのであります。それもかなり悪い方へ・・・

ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」やスーザン・ストレンジの「国家の退場」などはこうした大改革の文脈の中でとらえることができると思います。現代の金融市場では国家は投機の対象ではあっても実はすでにゲーム・プレーヤーでなくなっているということです。

世界的な行政・政治的な状況が金融市場の「エレクトロ技術の進展」や「時代遅れの規制をかいくぐる悪意の人為的技法や新しい技術をベースにしたインサイダー取引の」展開について行けずに徹底的に立ち遅れてしまっているのであります。

その上日本では「統治システム自体がお上と下々の情報格差を伝統的に統治の技術の基盤としていた」のでその基盤が崩れてしまったということが今日の行政・政治の貧困の原因であることは指摘するまでもありません。東電・原発問題や民主党政治状況(メール問題一つとっても民主党に政権を渡すべきではなかったのではないでしょうか)の救いようのなさはそうしたところから出てきております。

どこかに救いはないのかということなのでありますが、マクルーハンの受け売りなのですが「視覚優位の精神状況というのは(好戦的・悪意の魂に)一種憑依されたような状態なので、聴触覚を元にした古い文化に戻ればある意味で全人間性を回復でき心の平和を取り戻すことが可能」(とマクルーハンが言っているわけではありませんが)というようなことに期待したいのであります。

カテゴリを明快にしておきましょう。

視覚優位=表音文字・活字文化=デジタル文化=エレクトロニクス文化=金融資本主義文化=左脳文化 これでいけばマスメディアもデジタル世界の一員であるということであります。

聴覚優位=表意文字文化=アナログ文化=右脳文化

その意味でiphone4s+Siriの技術が今までの視覚優位の現状からエレクトロ情報技術に聴覚世界の扉をを開く画期になる可能性はあるのではないかと期待したいのであります。聴覚情報を携帯端末がWeb世界から引き出してくるところがとてもよいのです。

ロードマークス」でゼラズニイが描いたミツイ・ザイバツ製携帯コンピュータ・アレイ「フラーワーズ・オブ・イーヴィル」と「リーブズ・オブ・グラス」を思いだして楽しい。

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2月8日(水) 「(転職をする前に) モティベーション・アップ 社内起業を考える」

ダイバーシティ協議会代表理事久保氏

久保輝揮氏

ダイバーシティ推進協会代表理事久保博揮氏による社内公開セミナーです。「社内公開」というのは今回以降は公開を目標とし社内研修と公開セミナーの中間の位置づけであるためです。次回は社員運営主催による公開セミナー開催を目標としいずれは社員がセミナー講師をするような形を目標としてまいります。当日の出席者は社員40名社外2名の合計42名の参加者となりました。久保さんの大学時代のあだ名は髪色が黒くて色眼鏡のためもあって「マトリックス」(エージェント・スミスです)と呼ばれていたそうです。

昨年から社内「企業文化PJチーム」は7つの習慣の第2パラダイム「相互依存」(Interdependence)に取り組んでいますが多様な価値観と共通の目標というのか「弱み・課題の共有」というところでつまずいてしまうのです。他責の相互集積をしあってもダメというのはわかってもそれをどうしたらよいのかわからないというのが今の我々の現状なのであります。どこまでいっても「わたしはわたし、ひとはひと、みそくそいっしょみんななかよし」の「私の中のごみ屋敷(他責というゴミ)」から抜けれないのです。

その意味で長所を認める言葉と欠点を指摘する言葉の比率が1対9という前提で短所を長所に言い換えるとか、一人ではなく二人で対して意見交換するとか、同感するのでなく共感するという態度の取り方はとても大事なことだとおもいました。

ブラインドワーク

目が見えないという中でのコミュニケーションの取り方やあれとかそれとかこれとかいう言葉で如何に多くの体験を取り落しているかの気づきがこのワークのポイントであります。言葉でゴールイメージを伝えることの重要さは戦略的な会議運営では必須の課題であると思います。いろいろ多様な仕事をしているように見えますが実はあまり個性のない仕事を私たちがやっていることの証左であるようです。

自分らしさと人のためというジョハリの窓を使った「やりがい創造マトリックス」ワークが最後にはいります。この両立を目標に押さえていかないと始まらないようであります。「ひとのやらない、自分しかできない、今しかできない」ことの集積とそれによって磨かれた(ちょっと光るぐらいでも良いのであります)お互いの長所を交換し合って(交換し切り結ぶことによってさらに光をましてまいります)課題に取り組める会社ひいては社会を作り上げてまいりたいのです。

 

なお2月10日付毎日新聞6面「ひと」‐わたぼうし音楽祭日本代表としてに久保氏が紹介掲載されました。

人生の転機は17歳でベーチェット病発症19歳で失明するも阪神大震災での友人の死を転機に社会復帰。趣味の音楽もてこになって社会起業を実現したのです。最後に久保氏自身の「やりがい創造マトリックス」と毎日新聞記事を添付します。

2月10日毎日新聞記事

久保氏のやりがい創造マトリックス

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人生のバランスシート(仕事編)

              人生のバランスシート(仕事編)

    資産の部(目標債権)           負債の部(信条債務)     
1.ここには 2.ここには
目指す目標を記入します 信念によって自分に課す
達成納期・残高もわすれずに 行動規範=自分の信条を記入します
(企業)目的は社会貢献 こだわりとプライドを持たず、どんなことにも
        いじけません
世のため人のため自分を磨きます いつも笑って喜んで進んで
        仕事にとりくみます
世のため人のため仕事をします 信条に即し直覚的に行動します
やりたいことを断固として行います やりたくないことは決然としてやりません
強みを徹底的に磨きます 弱みを自覚し課題を共有します
エンドイメージを持って事を始めます 重要事項を優先します
          資本の部               
常にウィン・ウィンを目指します         1.2のバランスによって創造された
       社会へ提供または還元できる
     成果物・価値内容を記入します
毎日わくわくする仕事
毎日ドキドキする出会い
何事にも楽しく取り組める
毎朝が待ち遠しい

*やりたいやりたくないは事の好き嫌いのことではなくて事の正否のことであります

信条債務は喜んで進んで(利子をつけて)返さなければいけません

直覚的というのは頭の反応を通さないということです。意識を漉し袋のように使うのでなく、直観を受ける帆のように使うということです。


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朝礼  —礼の心は敬

東京中日企業の朝礼は基本的に「倫理法人会」方式をとっております。法人会発行の「職場の教養」輪読および「セブンアクトの斉唱」が含まれます。丸山敏雄氏の言っていることなどはユングの共時律をかじっていれば特に不思議な内容ではありません。船井幸雄氏の言っていることのほうがよほどオカルトなのであります。

司会は前日の朝礼時に指名し流れとして 「朝の挨拶」 連絡事項 「自律基準行動 挨拶発声訓練10セット」 「職場の教養」輪読 「セブンアクト斉唱」 翌日司会指名で終了であります。大体10分前後。それぞれのリーダーはすべて司会の指名になります。この形になって3年ほどになるわけで現在も9:15開始の原則強制参加でなく自由参加の形をとっております。会社始業は9:30であります。

挨拶発声訓練は ヨイオアシスハで 1.よろしくおねがいします 2.いらっしゃいませ 3.おはようございます 4.ありがとうございました 5.しつれいします 6.すみません 7.はい、よろこんで を リーダー発声 全員斉唱で10セット行います。途中でリーダーを順番に回します。これは法人会でなくモラロジー系の人財育成塾に社員参加して取り入れたものであります。

よくこうした儀式ばった朝礼、なかんずく「職場の教養」のようなものを輪読させると「企業にとって都合の良い反抗的でない社員を飼い馴らすために」やるのだというような話が出てくるのでありますが朝礼が儀礼であって内容によって洗脳しようなどと考えているわけではないことがわかっていないのであります。朝礼は礼なのでありますから「儀礼」として洗練することに意を注いでいくことが大事なのであります。服従するものを育てる場ではありません。

挨拶と滑舌、「はい」による受け渡し、前へ出る動きなどが内容であって基本は挨拶=礼そのものの在り方でしかありません。礼の基本は「敬」であります。敬の対象は「他者、先に行くもの=死者、死に行くものとしての自分」ということであります。敬礼という儀式があります。軍隊や警察、消防など自らの死を想定しなければいけない職業では当然となっている儀式ですが、死を対象とする医療機関では聞きません。理由は医療は自分の死を対象とはしていないからであります。

「礼」は内田樹先生流にいえば「猫の足を万力でつぶしてしまうような邪悪なもの」から身を守る生き残りのための知恵の様式であります。――横断歩道で小学生の横断指導を行って朝の「挨拶」を指導している大人の人が「自治会の会長」さんで普段は誰にあっても挨拶しないで下を向いて歩いている人が実はその末端権力を悪用して金銭を常習的にたかっている――。そういうことがどこででも聞かれたという時代がありました。戦前の自由民権運動や戦後の民主化運動の対象も実はこうした末端権力への反抗体験から始まったともいえるのではないかと思っております。ロシアの通貨危機や東北大震災で社会崩壊ぎりぎりでまぬかれたいわば物々交換による社会秩序維持運動の中にも善意の働きとは別に邪悪な末端権力の行使もまた行われたことは想像に難くありません。ロシアマフィヤのような反社会的事業のマネーロンダリングが21世紀の金融規制緩和によって金融市場の一角を占めるようになったは周知の事実であります。

朝礼によって期待するのはそうした「礼」を身に着けることによってそのことがどのような状況に置かれても最後の身を守る知恵になることを信じているからであります。「夜と霧」の中でヴィクトール・フランクル博士は「強制収容所の中でも身だしなみの好い礼儀正しい人の生き残る確率はたかかった」と云うような趣旨を語っております。孔子が「先王の道」として「礼」を説き始めたのは春秋時代の末年にあって世の乱れ始めを肌で感じたからであります。作法を徹底し団体運営に徹底的なルール化を行った禅宗が起こり始めたのは唐の末年から北・南宋にかけての混乱と成長と国民国家伸張の時代でありました。

会社であれ労働組合であれ国家であれマフィアであれブルーシートの集落であっても権力の末端で邪悪なものは常に発現しやすいのであります。平和主義の仏教教団の末端であっても権力のあるところいじめやたかり、差別は常態化していると思います。そうしたものから身を守るすべはその反対側に加担することでは多分ないのでありましょう。組織が末端から腐りやすいのは権力は服従するものによってしか維持できないからであります。

「礼」を成り立たせる場は禅でいう「主客転轍の場」なのであります。「やりたいことを断固としてやりきる。やりたくないことを決然としてやらないことが自明であるような人間関係」によって成り立っております。いじめや差別に加担しないことはもちろん見て見ぬふりもしないということであります。

 

 

 

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人生のバランスシート(2)  —借方を責め貸方を律する

目標がないという人たちが多くなっている。中高年になってもなお目標なく生きていくことを当然のように思っている人がいる。縛られることが嫌だから目標など持たないと高言する人もいる。目標を持たなくとも天から与えられ恵まれた才能と幸運や環境によって多くの余慶を周りに及ぼすことができる人がいるのも確かであるし、荘子のいう「眞人」というのかその人が居るだけで回りが幸せで平和になってしまうこともあるのかもしれない。

我々は凡人であるからそのままでは債務超過な人生なのでいるだけで周りを自分の不幸せに巻き込んでしまいがちだし悪いことにそのことの原因が自分にあることにすら気づかないケースがほとんどなのであります。

バルザックが「彼(ナポレオン)が剣で始めたことを自分はペンで成しとげよう」と揚言し、ゾラがなおバルザックを超えようと「ルーゴン・マッカール叢書」を書き上げるのでありますが、事実はなお小説より奇なりということでフランス革命の光芒陸離たる人物たちの行列は喜劇や叢書に書かれたものよりも確実に興味深いのであります。逆に考えればフランス革命こそがバルザックやゾラにそれぞれの小説群に挑ませた最大の理由に違いありません。そうなのであります、事実の前にはすべてのものはかすんでしまうのであります。それでもなおバルザックやゾラの志は壮と認めざるを得ないのと同時に彼らの人生そのものは革命列伝の主要人物に十分に拮抗でき得るものであります。

目標というのは債権なんだという風に考えることにします。損得だけの損益人生では入ってきたものが売上であって取り立てるということをしません。場合によっては自分で不良債権と判断してどぶの中へ捨ててしまうようなことも平気でやってしまうのです。この場合未達債権が多ければただちに債務超過になってしまいます。自分の不幸せを気づかない一番の理由はこの間違った不良債権処理にあるといって間違いありません。債務超過であることに気づけば当然返済に勢力集中するのは当然であります。目標を債権として考えたのですから(借金を返すという当然の)信条というのは債務ということができるのであります。債権を回収することも債務を返済することも与信を高める結果としては同じことになるのであります。

目標を達成しようとすれば当然多くの人の労力や物それに時間やお金を借りなければなりませし借りたものを配当や返済金の形で返さなければなりません。別な言葉でいえば目標が達成できない最大の理由は「借りた自覚がないので返したことがない=人間的に信用できない」だから「誰も力を貸してくれない」ということになるのであります。未達債権をどぶに捨てるとはこのことであります。

目標を持たない生き方をしている人のなかに「毎日わくわくする好きなことをやる」という人が居ます。この人たちは目標債権より信条債務の返済に力を入れているということができるのです。その信条とは「負債をできる限り喜んで(利子をつけて)毎日返済する」というものであります。まことに事実というものは動かし難くそれ故に私たちが負債を負っていることを気づかせてくれるのであります。だから目標を持てるのでもありますし返済を喜んで行うことを可能にしてくれるのでもあります。

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